小樽野球協会

地域と共に100年「樽協」の歴史
平成12(2000)年 長野オリンピックスタジアムにて
小樽野球協会の起こりは、昭和2(1927)年と言われており、北海道内では函館太洋倶楽部、JR北海道に次いで3番目に長い歴史を有し、市内では唯一の社会人硬式野球チームとして、市民や道内の野球ファンからは「樽協」の名前で親しまれております。
戦争で中断していた都市対抗野球も昭和21(1946)年には再開することとなり、「樽協」も活動を再開しました。昭和23(1948)年には、戦後連覇をしていた強豪函館太洋倶楽部を準決勝で破り、第19回都市対抗野球に初めて北海道代表として出場しました。樽協は優勝候補で、好投手武末を擁する西日本鉄道(福岡市)と対戦し、0対3で敗れましたが、その戦いぶりは讃えられる内容のものでした。
その後、昭和24(1949)年に始まった日本社会野球北海道支部結成記念大会の第1回大会と第2回大会を連覇するなど、昭和20年代には輝かしい歴史を残しました。
現在、「樽協」の本拠地となっている小樽市営桜ケ丘球場も市内に建設期成会が設置され建設されたのが昭和23年でした。当時の新聞などによりますと、桜ケ丘球場では東京ガス、熊谷組、東京鉄道管理局のほか、慶応大学や法政大学などの東京六大学のチームを招き、オープン戦も数多く行われました。こうした全国の強豪と対戦を重ねることで、高いチーム力を維持していました。

また、この時代のチームを支えていた捕手の目時春雄、投手の中川翠(写真右)と河文雄が、それぞれ松竹ロビンス、国鉄スワローズ、阪神タイガースに入団しました。こうした主力選手のプロ入団で戦力が低下した時期もありましたが、昭和30(1955)年には、決勝で太平洋炭鉱を破り、再度北海道代表として、第26回都市対抗野球に出場しました(写真右)。対戦相手は岡山鉄道管理局で、好投手太田の前に3安打に封じられ、0対1で初戦敗退しました。
昭和30年代に入ると企業チームが台頭するようになり、企業の看板を背負い戦力強化を図る企業チームとクラブチームとの間には戦力的にも資金的にも大きな格差が生じ、「樽協」をはじめとするクラブチームにとっては長く低迷の時代が続くことになります。選手や資金の確保が困難となり廃部の危機を乗り越え今日あるのは、歴史と伝統を有する樽協の存続を願う多くの市民の支えや関係者の熱意によるものです。
こうした中、昭和51(1976)年に「全日本クラブ選手権大会」が始まり、クラブチームにとっても全国大会出場の夢が叶えられることになりました。昭和55(1980)年の第5回大会までは函館太洋倶楽部の独壇場でしたが、第6回大会で初めて北海道代表となりました。その 後は平成7年・11年・12年と計4度北海道代表として全国大会に出場しています。
近年では、経済情勢を反映して多くの企業チームが廃部や休部に追い込まれ、新たにクラブチーム結成の動きが活発となり、道内でも「全日本クラブ野球選手権大会」代表の座を巡って、毎年熱戦が繰り広げられています。
現在、「樽協」も「全日本クラブ選手権大会」への出場と、まだ先輩たちも成し得なかった全国1勝を目指しております。また、「樽協」は来たる令和9(2027)年に創設100周年を迎えます。これまで長い間多くの市民に支えられてきたことに対する社会還元や地域貢献の役割を果たすべく、平成15(2003)年から行ってきた少年野球教室に加え、地域の中学・高校・大学との関わりを深めることにより、世代を超えた「野球のまち」を作っていけたらと願っています。同時に100周年に向け、チーム力の底上げを図るため、チーム内競争を活性化し、選手個々においてもスキル・メンタルの強化に日々精進しています。
令和6(2024)年には、応援サポート組織として、企業や市民の皆様等により「樽協 後援会」も立ち上げていただきました。地域の期待に応えるため、本市のスポーツ振興の一端を担う使命を持ちながら、「樽協」の歴史と伝統をしっかりと後の時代に引き継いでいきたいと考えています。

